『火』

  黄熟した麦の、かすかに焦げているような香いと、蓮池の面からながれてくる甘酸っぱい、しめった香いが、奇妙にいりまじってよどんでいる夕闇のなかで、わたくしは野天風呂につかっている。ひるまなら筑波も富士も臨むことができるのだ。この関東平野の真中に、仮の住まいをさだめて、すでに三歳の月日を送っている。なんという異常の年(アヌス・ミラビリス)をかさねたことだろう。このような歴史の曲がり角を何十年かののちになって顧みたならば……と、考えてみて、ふと或る種の不安と恐怖を覚えるのだ。

 なぜか。それについて、どこからかたっていったらよかろうか。とたんに風呂の釜のなかで、ぱちぱちと音がしたかと思うと、火の子が、中空に、星の高みにまで、まいあがるのであった。チェスタトンだかたれだったかが、いま篝火からうまれたばかりの新しい火と、久遠に輝く星の火とくらべていた。そうだ、わたくしも火についてかたらねばならない。

 人類はどんな工合にして火を獲得したのだろうか。それはどんな風に変貌していったのであるか。また、どんな方法で支配されたり、支配したりしたのであるか。

 火と人類の交渉のことをかたりたいと思うわけは、アイスランド神話『旧エッダ』の火神ロキの性格に興味を惹かれたからでもある。この北欧神話は、世界に類のない宇宙壊滅をかたっているのだ。

 ーー世界樹・イグドラジル。それは、主神オーディンに殺された巨人イミルの髪の毛から生じたもの。根が三本ある。一本は人間世界・ミッドガルド、一本はオーディンとのたたかいにやっと生き残ることのできた巨人族の住むヨエツンハイムに、あとの一本は、死の国ニフルハイムにまで延びている。その頂は、オーディンの住む天上国・アスガルドにまで達している(アイスランドに流れてきたゲルマン人の末裔は、原住地中央ヨーロッパの欝蒼たる大森林のことをかたりついできたのだ)。さて、ミッドガルドでは、運命の乙女三人が泉の水をそそいで、イグドラジルのいのちを永遠のものにしようとしている。けれども、ヨエツンハイムでは、悪竜が毒虫どもをはげまして、その根を嚙っている。これは、善悪の二次元的対立の象徴で、ゲルマン民族の神話のライトモィチーフをなすものだ。

 オーディンは、神神の行末を心配して、運命の乙女たちに尋ねたところ、その答は、神神と巨人族のたたかいによる両者の死滅というのであった。火神ロキが、そのたたかいの点火者だ。かれは光明神バルデルを殺してしまうのだ。バルデルが死の予感に脅えていたとき、その母オーディンの妃は、世界中のすべてのものに、かれの命を奪わぬことを誓わせ、それをためすために、神神に命じて、投槍、剣、斧、石などを投げさせてみるが、いずれも誓いを守っているので、かれの所までは飛んでゆかない。ところが、ロキは寄生(やどり)()だけが誓いを立てなかったことを思いだし、めくらのためその遊びに加われず、ひとり淋しくしているバルデルの双生児ホヅルに、その寄生(やどり)()でつくった箭を投げさせる。それはかれのからだにあたった。バルデルは死んだ!

 神神の黄昏・ラグナロクがやってくる。その前触れ¾¾天の四方から降りしきる吹雪、颷颷とうなる強風、河も海も閉ざす堅氷、そして三度の冬、さらに三度の冬。人間界では、不和、争闘、殺戮がはげしくなる。怪狼フェリンスの生んだ狼たちは、人肉を喰い、さらに日の神、月の神をも、喰い裂き、そのため星たちは空から堕落して天界は暗黒に化する。これまで大地の下の巨岩にくくられていたロキ、鎖につながれていたフェリンス、冥府の猛犬ガルム、大洋の底の巨蛇、地獄の女王のくりだす舟に乗った霜巨人、極熱界から火のつわもの¾¾いずれも神神の住むアスガルドをめがけて押し寄せてくる。イグドラジルもついに悪竜に嚙み切られた。怪狼は、上顎を天に、下顎を地につけて、オーディンを呑みこんでしまう。その子が駆けつけ、狼の顎をばりばりと引き裂いて、父の仇を討つ。神神は、巨蛇、猛犬、火神ロキと相打ちになり、たがいに屠りあう。最後に、火のつわものを率いた焔の巨人スツルが、天空、大地、冥府に炬火を投げつけたところ、火はたちまちにして全宇宙にひろがり、世界樹・イグドラジルも炎上し、大地は焼けただれ、煮えたぎる海のなかへと沈んでゆく。世界の終局!神神の惨たる終焉なのだ。

 火神ロキとなにものであろうか。かれは、オーディンの弟だとも、また、オーディンの敵、巨人の子だともいわれている。つまり、「善きもの」と「悪しきもの」とが抱合した二重性格なのだ。この錯雑した性質は、人類の生活のなかで火の演じる二つの力、すなわち、創造力と破壊力を神格化したものである。宇宙の均衡がたもたれているとき、かれは創造の神、善神である。しかし、一旦、均衡がくずれると、かれは破壊の神、悪神とかわり、阿修羅のごとく荒れ狂い、宇宙の破滅をすら意図する。

『旧エッダ』の火神ロキを、極北の氷島に咲いた一輪の狂い咲きとして、見過してよいであろうか。

わたくしにはそうは思えない。なぜなら、現代に生きる新装の火神ロキのすがたを、まのあたりに眺めるからだ。それは原子(アトム)のことだ。HG・ウェルズは、第一世界大戦のはじまるまえの年に、『解放された世界』という空想科学物語をかいて、原子爆弾による世界崩壊を告知したのであった。その予言はかならずしも的中したとはいえない。しかし、第二次世界大戦の終焉をつげるものとして、ロキはいかにも火神らしく、破壊・平和の二重のすがたで突如登場したのであった。かれは世界炎上を遂行することはできなかった。善悪の均衡はまだくずれてはいない。が、それは安定の静止ではない。たえず振動をつづけている。いつロキが、双生児ホヅルをそそのかし、寄生(やどり)()を光明神バルデルにむかって投げつけるかわからない。神神の黄昏のような異常(アヌス・ミラビリス)がまぢかくせまっているかもしれないのだ。原子核エネルギーは、人類を、いや地球をも滅ぼしてしまうかもしれないのだ。荒唐無稽の妄語と、わらうものにはわらわせよ。わたくしたちはいま、このような人類はじまって以来の深刻な危機のただなかを彷徨しているのだ。

 もともと人類は、神がエデンの東の(かた)に設けたという楽園に暮らしていたときには、火神を知らなかったであろう。アダムとエバが楽園を追放されて、「(かほ)に汗して食物を食ひ」と、エホバ(かみ)から言渡されたときから、人類は、火を手にいれなければならなくなったのであろう。『旧約』はその間の経緯については、とくに触れていないけれども、ギリシャ神話には、有名なプロメテウスの物語となって、こんにちまでかたりつがれている。プロメテウスは、天界オリュンポスに昇って、藁の髄に太陽の火をつけ、それを人類にもたらしたのであった。天界の統治者ゼウスは驚き、怒った。ほおっておくと、彼奴、なにをやりだすかわからない。わしが、土と水をもとにして送ってやった人間共、きっと火を手に入れて、わがオリュンポスに攻めてくるにちがいない。困ったことだ。とにかくあのプロメテウスという火盗人(ぬすびと)を野放しにしてはおかれない。……

 ギリシャの三大悲劇詩人の一人、アイスキュロスは、この英雄についての三部作、『火をもたらしたプロメテウス』、『縛られたプロメテウス』、『解かれたプロメテウス』をかいているが、こんにち残っているのは、第二部のみである。

 その冒頭¾¾ゼウスの家来たる力の神・クラトス、暴力の神・ビアーが、力無くしたがうヘファイストスを伴って、縛られたプロメテウスをつれて、コーカサスの山地へやってくる。)以下クラトスのことば。

 

   大地の遠い涯にやってきた¾¾ここは

   放浪のスキチア人のほか、足を踏み入れるもののない

   荒涼たる不毛の地。鍛冶(ヘフアイ)()(トス)よ、きみはわれらが父の命を行ひ

   この悪漢をその聳り立つ巌にくくり

   挺でも動かぬやうに縛りつけるのだ。きみの誇りたる

   火を、あらゆるたくみの秘奥を、かれは盗んだのだ

   そしてかよわい人間に惜しみもなく呉れてやつたのだ。さういふ罪のために

   かれは天界の報ひを受けねばならぬのだ

   かれはゼウスの万能の力を敬ふことを知るべきだ、

   そして人類に深切にすることを止めるべきだ。

 

プロメテウスの嘆きにも耳を傾けてみよう。

 

   ……(わし)は人間にくれてやった。

   あの神神の所有(もの)たる贈物、

   それでここに監禁されてゐるのだ。

   そしてまた藁の髄を充たし、

   こっそりと、火といふ秘密のいづみを捕へたが、

   それは人間共の利益になる贈物となり、

   あらゆるたくみのもつとも良き教へとなつたのだ。

 

 プロメテウスが火をもたらすまえの人間の状態は、どんなふうであったろうか。

 

   人間共には眼があつたが、見えなかつた

   耳があつたが、聞こえないのだ、

   それまでは万事を夢のなかみたいにごつちやにしてゐた、

   煉瓦で囲んだ家で、陽を入れることなどちつとも知らず、

   大工のこともわからなかつた。虫けらみたいにして棲んでゐたのは、

   地下の穴だつた。なんのしるしも

   知らなかつた、冬についても、花の春についても、

   収穫(とりいれ)の夏のことも。かれらの仕事は万事なんの自覚もなしにやられてゐたのだが、(わし)が教へてやつたのだ、

   星が昇つたり、またそれ以上に難しい、

   星の沈んでゆくことも。そのうへ、かれらのために、

   智慧を搾つて特別にすぐれた発明を考案してやつた¾¾

   数といふ、第一級の学問や

   文字のかきかたや、また賢明な記憶といふ

   あの(ミユ)(ーズ)の母たる不可思議の働き手。

   俺こそはじめて召使ひの牛を

   軛の下につなぎとめて馴らし、人類を

   幾多の労役から解き放ち、またそのおとなしい馬を

   立派な車につけて牽いたが、

   富めるひとびとの誇りとしてゐる道具であることに光栄を感じてゐた。

   そして、この(わし)のほかたれが水夫のために発明しただらう

   あの帆布のつばさをつけて波間ただよふ戦車を。

 

 そのほか、かれは,治療術、占判断、火占、鉱物の埋蔵、倫理などをもつたえた。「プロ メテウスは、人間に一切の技術をあたへたのだ。」(とはかれみずからのことばだ。)アイスキュロスのいうように、火を人間につたえたプロメテウスは、まことに技術の父なのであった。技術は創造をもたらす。これまでは天上界のものとされ、神神の手に独占されていた創造は、火という技術を媒介者として、地上界のものになり、人類の手に握られるようになった.黄金時代は去り、楽園は喪われる。が、ここに真の進歩が発足するのだ。想えば、かの黄金時代、楽園とかたりつたえられているものも、そのじつは人間以前の世界なのであった。それは、アイスキュロスの描いたプロメテウスがいっているように、自覚せる、独立せる、自由なる人間のいない世界なのであった。おなじくプロメテウスをあつかったヘシオドスも、『仕事と日日』のなかで、黄金時代の「黄金種族」について述べているが、これにくらべて、三百年ほど遅れて現われたアイスキュロスの解釈の方が、ずっと近代的だし、また、現代的でさえもある。バビロニアには、グルーという火神いたが、これは天の火、地心の火、祭壇の火を人格化したものだそうだ。そして、おもしろいことには、かれが鍛冶の神であり、神と人間との媒介者、もしくは、神神の使者と考えられていたことだ。窮極的にはプロメテウスとおなじように、この火神も、鍛冶という技術の媒介によって、神神を人間につなぐこと、べつのいい方をすれば、人間の力を神神のちからにまでたかめることを任務としていた。まことに、技術こそ、神の属性たる創造に肉迫するものであった。だからこそ、プロメテウスは「神神にたいする罪人」とされ、ゼウスの翼ある犬(鷲)が来る日も来る日も、嘴を黒い血で染めて、かれの肝臓をつつき、苦しめるのである。ゼウスは、火を知った人間、技術をわがものにした人間、みずからを神にすることのできる人間¾¾これを恐怖し、憎悪したのであった。

 おなじ火の神でも、プロメテウスをコーカサスへ連れてゆくのに手伝った、あの鍛冶の神は、シシリー島のエトナ山の下に自分の仕事場をもっていて、そこでゼウスのために雷霆を製作し、その賞として、美と愛の神アフロディテを妻君に貰っている。かれは、神の僕ではあったが、人類の見方ではなかったわけだ。

 いったい、人類はどうやって火を手に入れたのであろうか。落雷による発火、溶岩のながれ、樹樹の摩擦などの発火を利用したこともあっただろう。が、もっとひろい、手近かな火としては、石器をつくるときにとびちる火花だったのではあるまいか。その時期はきわめて古くまで溯ることができるようだ。最後の氷河時代は、いまから二万年昔に終わっているが、それ以前、三十万年乃至五十万年に亙って、長短いくつかの氷河時代が来襲したのであった。それ以前にも、たとえば、標石や氷河の土の下に、旧石器時代以前の石器が発見され、焚火のあとがみられる¾¾これはイギリスのフォックスホール丘陵のことだが、ここには遺骨のない「フォックスホール・タウン人」が想定される。かれはすでに火を知っていたのだ。やがて氷河時代に這入る。かつては、野獣を寄せつけぬための焚火となったり、鳥獣魚肉を焼くための手段として利用された火は、いまでは寒気を防ぐために必要欠くことのできないものとなった。したがって、火種を絶やすことは、もっとも避けなければならぬところであった。火花から枯葉へ、小枝へ、大枝へとうつして、あたらしく火をつくることは異常に困難なことであった。それにつけても、おき(、、)を消さぬことが大切になってくる。

 HG・ウェルズは、例の『世界史の輪廓』のなかで、こんな工合に、それを叙している。「たれかが火の番をしなければならなかつた。絶やしてしまつたら大変なことだつた。その道の権威の推測では、その責任者に特殊なひとびとが任命されてゐたといふことだ。聖火を守つたヴェスタ神殿の斎女(いつきめ)は、大昔火の番人をしたものの名残りであつた。」ヴェスタ神殿とは、ローマの竈の神のことだ。わたくしたちの民間信仰でも、やはり竈は、火を用いる所であるために、神聖なものと考えられている。アマツヒツギが火継ぎだと、説くひともあるが、真偽は保証のかぎりでない。

 インドには、アグニという火神がいるそうだ。この神様は、河とか、草原とか、立木などのなかに、身を隠す癖があって、その都度、神神はかれを探しださねばならない、ということである。これはたんなる空想譚ではないようだ。プロメテウス以来、人類は、やはり火を、一層よい火を、探しつづけてきたのである。薪や炭のなかに、石炭、石油のなかに、動植物の脂肪のなかに……。そしてそれは、燈火と暖房が主であった。もちろん、冶金術には欠かすことのできないものであったろう。古代エジプトでは、工人が二人向きあって、革の(ふいご)を足で圧しながら、炭火の焔の還元作用で、製鉄を行っていた。それに類した製鉄法は、古代民族がほとんどすべて行ってきたし、こんにちでも未開人のあいだで行われているそうだ。創造の父たる火よ!だが、ひとびとがこのような労苦を払って、火によって造ったものは、破壊を目的とするもの、すなわち、たたかいの武器なのではなかったか。二重人格者たる火の実体、ロキの影をみとめる。

 火がめざましく変貌していったのは、なんといっても産業革命のときであった。イギリスに端を発し、十八世紀の終わり頃から一世紀に亙って、全ヨーロッパに波及したこの変革は、中世の封建制度に決定的な打撃をあたえ、近世の資本主義制度を確立することになったのであった。ワットの蒸気機関の改良(一七六五)と結びついた紡織機の発明、さらに、蒸気機関に端を発する二つの画期的な新交通手段¾¾フルトンの汽船(一八〇七)とスティヴンソンの蒸気機関車(一八一四)の発明は、これまでの動力源であった人力、馬力、水車、風力を徹底的に無力にしてしまったのであった。プロメテウスがこのありさまを眺めたならば、己のもたらした火の子孫の繁栄にどれほど悦んだことであろう。コーカサスで送った苦痛の日日も、ついにこんなにまで報いられたのかと驚いとことであろう。

 この技術革命がどんなにめざましいものであったかを、イギリスの銑鉄生産高についてみてみよう。六八〇屯(一七八八)から六一〇〇〇屯(一八七〇)へと、一世紀のうちに百倍の躍進である。あのエジプトの工人は、数百年に亙って、鞴と木炭を使用しつづけていたことであろうが、その増産ぶりは遅遅たるものであったろう。また、汽車や汽船の速度を、人間や馬の足の速度に較べてみたまえ。いにしえのゼウスとて、これほどはやく歩くことはできなかったであろう。かれは、ギリシャのオリュンポスの真白い山頂に住み、たかだか黒海を越えて、コーカサスあたりを地の涯だなどと思っていたようだが、火を手に入れた人間は、汽車と汽船を駆って、六つの大陸、七つの海を縦横にかけめぐっているのだ。

 にもかかわらず、人類は、その結果として、好ましからぬ収穫、あの第一次世界大戦という大殺戮を体験したのであった。それまでは創造のために活躍していた火は、一瞬にして破壊の火にかわったのだ。ああ、呪われたる二重性格の火よ!「悪しきもの」として火神ロキは、足掛五年に亙って、ヨーロッパの天地を荒れ狂ったのであった。その犠牲として九百九十万の人間が死んでいった。

 ここで、観点をかえて、プロメテウスの知らなかった「第二の火」ともいうべき、電気について考えてみたい。この別種の火を捕えたのはたれであったろうか。それは正確にはわかっていない。なるほど、ギリシャの昔すでに琥珀の摩擦電気は発見されていたようだ。けれども、この「第二の火」の正体が一歩一歩あきらかになっていったのは、十八世紀になってからのことであった。最初のうちは、やはりギリシャ人のように、琥珀とか硝子(これは昔はなかった)などをじかに手で擦ってみて、電気を起すことから出発したのであった。やがて、正負の二種の電気の発見、ライデン瓶および起電機の製作となり、ついで空中電気、生物電気などの探究ともなったのである。

 一種の万能人にちかかったフランクリンは、空中電気の熱心な研究家でもあった。かれは、一七五〇年に避雷針を発明した。その墓碑銘には、¾¾このひとは、天上から稲妻を、暴君から王笏をもぎとった、というダランベエルの賛辞が刻まれているそうだ。この後年は、かれがアメリカ合衆国の独立宣言起草委員の一人にえらばれたりなどして、イギリス王の専制支配から、アメリカの人民を解放したことを意味している。そういったかれが、この恐るべき「新しい火」の災害を防ぐ手段として、避雷針を考案したことは、偶然のことではないような気もする。電気が、実験室から産業のなかへ進出していったのは、十九世紀になってからであった。そのなかでも、無人の曠野をゆくように、めざましい進歩、発達をしめしたのは通信手段においてであった。モールスの電信機(一八三五頃)、大西洋横断海底電線(一八六六完成)、ベルの電話(一八七六)、マルコニーの無線電信(一八九五)、ポールセンの無線電話機(一九〇三)など。一方、それに平行して、一層重要な技術上の変革がすすんでいた。シーメンスのダイナモの改良(一八六六)、グラムの環状発電子(一八七〇)などは、動力としての電気をつよく前面におしだすこととなった。この傾向はニ十世紀になってから、一段とつよくなり、第二の産業革命の時代を現出することになった。蒸気力は産業資本を成立させた。そして、電力は、金融資本を成立させ独占資本主義時代を生むことになったのである。いうまでもなく、第一次世界大戦においては、プロメテウスの火だけではなくこの第二の火も、力を合わせて、破壊のために、狂奔したのであった。それは、両者だけの負うべき責任ではない。いずれも、火神ロキのように「善きもの」と「悪しきもの」の性質を二つながら兼ねそなえているのだ。世界の均衡がくずれたからにほかならない。創造力が破壊力に変身するのはこういうときなのである。

 やや脇道になるが、ここで、創造の火としての電力を人類に惜しみなく頒ってくれた一人の人間、あのエディソンのことを想い浮かべてみよう。かれは、少年時代、新聞売子をしていたが、駅長から電信技術をならう機会をあたえられ、鉄道電信技手として、電信機の改良に没頭した。それから、白熱電燈の完成、長距離無線電信の改良、エディソン蓄電池などをはじめとして、十九世紀後半から今世紀にかけて、無数の発明改良を行った。ニ十世紀文明の一標識ともいうべき夜の照明は、かれの苦心の賜物なのだ。だが、かれの同国人フランクリンに較べるとき、若干異ったものを感じる。それは、かれが純然たる技術家、事業家としてのその能力の範囲でのみ、人類の幸福をはかったことだ。それ以上ではなかった。かれは、「暴君から王笏をもぎとった」人ではなかったのだ。フランクリンのこの一面を承け継ぎ、しかも、電気の将来にもっともふかく関心を寄せていたひとがいた。かれの名はレーニンであった。一九二〇年二月といえば、まだ政権獲得後二年半ばかりで、いわゆる戦時共産主義時代のことであったが、かれはこのときはやくも、二百人の専門家を動員して、ゴエルロ(ロシア電化専門委員会)を組織し、十箇月の日数をかけて、十五箇年電化計画を立案したのであった。電化プラスソヴェート権力は社会主義への道であるというのが、この天才の感覚でとらえられた「第二の火」の映像なのであった。それは一九三一年から実施されたが、六年目にははやくも、発電量において、アメリカ、ドイツについで世界第三位、戦前の十六倍に達したのであった。だが、この地上の六分の一でも、電気はかならずしも、創造の火として用いられたのではない。日本とドイツというファシスト侵略国家を東西に控えねばならなかったソヴェート・ロシヤは、侵略者反撃のために、破壊の火をも準備しなければならなかった。

 第二次世界大戦は、第一次のそれを凌ぎ、一千万の大殺戮を行ったが、ソヴェート側は、そのうち三分の一の犠牲者をだしていると見做されている。社会主義への道もまた苦難をきわめている。それはともかく、この第二次世界大戦終了の一九四五年には、ついに「第三の火」たる原子核エネルギーの発見、創造を見たのである。

 こんどの戦争のなかから生まれたいくつかの画期的な技術として、電波兵器とペニシリンをあげることができよう。化学療法として、新大陸発見にも比すべきペニシリンすら、この原子爆弾のもつ、人類史的意義にはとおくおよばぬものがあろう。順列をつくってみる。プロメテウスの火、第二の火・電気、そして第三の、おそらく最後の火たる原子核エネルギー。

 アインシュタインは、一九三五年八月二日附のルーズヴェルト宛の書翰のなかで、「ウラニウム元素が極めて重要な新しいエネルギー源として利用されるに至ることは容易に予感できる。……そしてこの新現象は同時に恐るべき強力な爆弾の発明を促すに至るであろう。」と述べているそうだ。キュリー夫人のラジウム発見(一八九八)、ラザフォードとソディーの原子崩壊説(一九〇二)、ラムゼイとソディーの放射性元素の変貌(一九〇三)、ラザフォードのアルファ粒子による原子核破壊の実験(一九一九)、ローレンスとリヴィングストンのサイクロトロンの考案(一九三〇)、パウリのニュートリノ(中性微粒子)の仮説(一九三一)、チャドウィックの中性子の発見(一九三二)、コックロット・ウォルトンの人工陽極線による原子核破壊の実験(同年)、ハーンとシュトラウスマンのウラニウムの原子核分裂の発見(一九三八)¾¾といった工合に、ほとんど半世紀に亙って、人類第一級の頭脳が原子核エネルギーの獲得にむかって知識の突撃をくりかえしていたのであった。だからこの意味では、アインシュタインのいっているように、原子核エネルギーの解放ということは、少しも新しい問題の提起ではない、ともいえいよう。ひとつながりの古い問題に終止符を打ったのだと見做すこともできよう。こんにちの状態では、まだウラニウムやプルトニウムの原子核エネルギーが、たんなる軍事目的として使用されているにすぎない。だが、これだけの材料を以てしても、また大戦争のあった場合には、第一次、第二次の世界大戦の人命殺傷の桁を一つ越えることだけは見通しうるであろう。二十世紀はその前半を終われぬうちに、二つの世界戦争を経て、その間に約二万人の人間を大墓地へと送った。これは、スエーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダの総人口に匹敵する。

『トラストDE』という幻想ふうロマンは、エレンブルグが一九二三年にかいたものだが、そこには、ヨーロッパ滅亡の映像が造形されている。作者によれば(主人公エンス・ボートは)、「彼は、老衰したヨーロッパの人々に、百年後にはどうせ彼等がするであらうことを教へたばかりであった」のだ。原子核エネルギーの登場は、たんなるヨーロッパの滅亡ではなく、『旧エッダ』のように宇宙壊滅のまですすんでゆくのではないかという恐怖の念をよびおこすのである。日本再建の夢を、そういった大殺戮の発生のなかに託そうとしているひとたちは、それが、神神の黄昏・ラグナロクのほかならず両者の相打ちにまきこまれて、一半の灰燼に帰すものであることを再思三省すべきだ。いまでこそ、二つの特異な元素にしか宿れないけれども、やがてこの時代の火神ロキは、原子量の高い元素に、そして(これからは文学的空想だが)、一杯の水、一握りの土のなかにさえもやすやすと、身を潜めることができるようになるかもしれない。エンジン、ダイナモそして、そのつぎにアトム・エンジンの出現になるかもしれない。もちろん、火薬のエネルギーが、その燃焼を制御できぬため、ダイナマイトとしてしか使われぬように、原子核エネルギーも、エンジンとして利用されるまでには、まだいくつもの紆余曲折をへなければならぬであろう。だが、幾人かのプロメテウスがかならずやその隘路を突き進んでゆくことであろう。そのとき、人類はどのような展望に立つことであろうか。ゼウスの火を獲得した人間は、やがてその電霆をも自分の支配の下におくことに成功した。では、原子核エネルギーの発見、創造はどんな意味をもってくるのであろうか。わたくしはそれを星の人工とよびたい。『旧約』の義人ヨブは、エホバから、汝は星の世界をいかんともすることができぬであろう、ときめつけられ、神の摂理のまえにひれふしてしまったが、こんにち人類は、星のエネルギーをも獲得したのである。この無限大のエネルギーもいつかは必ず産業化されるであろう。人類の胸を『旧約』の記者を、空想社会主義者を、科学的社会主義者を掠めていったあの終局の希望も必ず実現されるであろう。それは、各人がその力量に従って働き、各人がその必要に応じて享ける、というユートピアである。レーニンはそれを電気によって実現しようと企てたのだが。だが、そういった千年(ミレ)至福(ニア)時代(ム )への希望も、それを手に取ってしまうまでは、つねに、「悪しきもの」としての火神ロキの幻想に脅えざるを得ないのだ。楽園創造か、地球壊滅か、それは紙一重の差なのだ。この二者択一にあたっては、もはや個人の善意だの、倫理だのは、土塊にもひとしいであろう。この地球を、アクロポリス(世界市)にするか、ネクロポリス(大墓地)にするか。この巨大な課題を解きうるものは広い意味でも、狭い意味でも政治あるのみである。もちろん、それは小数者の手による政治ではなく、人民の手による政治である。かのフランクリンのように、わたくしたちは、右手には星のエネルギーを奪い取ることに成功したのであるが、こんどは左手で、暴君の見かけ倒しの王笏を奪い取らなければならないのだ。

 ……煙突からまいあがる火の子もしずまった。満月にちかい月があがってきた。その光りに照らしだされて、麦畑の黄色い秋のような色と蓮池の濃緑の夏の色とが奇妙な組み合わせである。

                      (一九四六・六・一四)