『文学時標』発刊のことば

石もまた叫ばん!

 いつ終わるともなかった絶望の長夜にも、ついに光がさしてきた。惨苦と汚辱の反動十数年を耐えて、今日ここに自由の陽ざしに立つことを、生けるしるしあり、と心から悦ぶ。

 おもえ!われら青春の日に目撃した惨事の数々を…。日本ファシズムが文学に加えた蛮行と凌辱は、消えることのない瘢痕と化し、いまなお疼きを覚えるのだ。

 かれら文学の敵は、まず、プロレタリア文学運動を圧殺し、つぎにその血まみれの手を、同伴者作家、進歩的・自由主義的文学者のうえにと伸ばした。かれらは平和と人道を愛する作者たちからペンをもぎ取った。さらに、かれらは文学流派としてのリアリズムを抹殺した。生活派、現実派、そして『綴方教室』風の作文さえも、『犯罪』なりとして、文学を愛する数多くの人人を検挙したのであった。かれらの狂行は、実証主義、合理主義の否認を以て、ついにその絶頂に達した。宗教裁判の再現であった。文学は完全に息の根を絶ってしまった。

 だが、かれらファシストたちと陰に陽に力をあわせた作家、評論家がいたことを忘れることはできない。その最大なるものは、『聖戦』文学の製造者と支持者である。かれらは銀三十枚とキリストを換えたユダのごとく、卑小な野心、些かの生活の資をえんとして、文学の純潔を娼婦のように自らの手で泥土に委ねたのであった。言うなかれ!指導者にあやまられていたのだと。或は、官憲の圧迫のため舞文曲筆を敢えてしたのだと。あの呪縛にかけられたいけにえの特攻隊員すら、戦争の終わりには、幾人となく脱走を企て、自らの運命をきりひらかんとしたではないか。『聖戦』文学の何万貢は、ルージュを以て、身を護らんとしたマニラの少女たちについて報じた、連合国軍司令部発表の数行におよばなかったのだ。ああ、文学の大空白時代よ!

『聖戦』文学者共はこのことを恥としないのか。かれらは、パンをもとめる読者に石をあたえたのだ。そして、『聖戦』が『醜戦』となった今日になっても、かれらには、己の師を売ったことを後悔して、縊死せるユダの心情すら湧かないのだ。かれらは新しい自由の文学に便乗を試みんとあがいているのだ。

 石もまた叫ぶ!

 われらは、かれらを監視しよう。聖なる芸苑を彼等から守ろう。それはわれらにあたえられた文学的使命である。

『文学時標』は、純粋なる文学の名において、かれらの厚顔無恥な、文学の冒瀆者たる戦争責任者を最後の一人にいたるまで、追求し、弾劾し、読者とともにその文学上の生命を葬らんとするものである。このことは、文学領域において民主主義を確立するための第一歩である。これなくして、一切の文学再建は砂上の楼閣であろう。

 われらは一切の政治上のイズム、文学上の流派から解き放たれて、大胆率直に芸術のための芸術を信じ、文学の高貴性を信じ、今後の活動を行わんとするものである。文学はこの道によってのみ正しい政治につながるのだ。

 いま、われらは文字通り、数本の甘藷か一冊の書籍か、といった窮迫状態にまで追いやられんとしている。あれらは飢餓に脅かされつつも、一冊の文学書に愛着を禁じえない精神を良しとする。これはいままで文学的貴族主義として誤解されてきたが、元来このような精神こそ、ひろくふかく人民のなかに養われるべきものではないのか。一部少数者の手より文学を奪い還し、これを人民の手に解放すること――これこそ、文学領域における民主主義革命の最終の目標である。

『文学時標』はこれをめざして、力を尽くしてたたかうであろう。

 石もまた叫べ!

                     (一九四六・一・一)

 

『文學時標』ーー荒正人、小田切秀雄、佐々木基一 発刊 (荒正人記)